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解任は妥当だと思うけれど、という前置きを使いたくない。小山田圭吾の件も含めてそれは責任者が判断したらいい。


まずラーメンズのあのネタに、小林賢太郎ホロコーストへの賛意を示す意図がないのは明らかだろう。ただ頭の変な人のセリフだとしても、ホロコーストを持ち出して笑いを取ろうとしたのが問題視されているのだと思う。確かにこの2021年にこのネタをやって笑いが起きないだろうし、2021年だったら避けたワードではあるだろう。

しかしネタの映像でも笑いが起こっているように、あの表現で笑いが取れたのが当時だったのだ。それは当時の認識として、ホロコーストがデリケートな話題であるという認識がこの場にはなかったということだ。日本人が原爆の話題で全く笑えないように、ホロコーストはデリケートなワードだったのだ。のん気で鈍感な世の中だった。

それにしても22年前のワンフレーズだけを取り上げて、今もそういった鈍感な意識の人間であると本気で思っている人がどれだけいるのだろうか?

本気で思っていないとしても、過去のネタに対する禊が必要ということなのだろうか。過去のネタの中に今の社会通念に基づかない表現があった場合に、何らかの謝罪を行わなければ、活動がままならなくなるのだろうか? 古い小説であれば、差別的な表現に対してどのように表現を改めるか、改めないかが議論されたりするけれど、お笑いのネタはそういった当時の表現としての議論がされないのだろうか?


しかしながら、ラーメンズのネタには元々きわどい表現があったのは確かだとは思う。

ラーメンズの有名なネタに「日本語学校」がある。いろいろな国の日本語学校を舞台として、先生と生徒の変なやり取りを笑いにするコントだ。とても好評なネタで、アフリカ編、アメリカ編、といろいろなバリエーションが作られた。古くからインターネットに触れていた人は、Flash動画の音声として知っているかもしれない。

この日本語学校のネタは、外国人が話す日本語の可笑しさが一つの要素になっている。これは今の社会通念上、「正しくない」ネタだろう。

もし外国に「英語学校の日本編」とした日本の英語学校を舞台としたコントがあって、日本語なまりの英語で発音するコメディアンが「そんなこと言わねえよ、何勉強してんだよ」って表現で笑いを取っているネタが存在したら、日本人としていい気はしないだろう。笑われる側の当事者として気分がよくないということは、正しくないネタなのだと思う。

ただこのネタも、当時は大うけしたのだ。私もこのネタをとても気に入って、ラーメンズを追いかけるようになった。

「新日本語学校」のCDを買ったとき、いろいろな国の日本語をネタにして笑うことに少し違和感があったのを覚えている。しかしながら「深く考えずに面白がった方が面白い」という意識には勝てなかった。

お笑いのネタを見るときに、そういった葛藤が生まれることは珍しくない。でも受け入れた方が面白いから、受け入れてしまい、次第にその感覚も麻痺してしまう。これはコメディの怖さだろう。

そういったネタを披露したのは浅はかではあるのだけれど、それはラーメンズだけの話ではない。それを受け入れて笑っていた人たちも浅はかなのだ。同じ価値観を持って笑っていた両者に、何の差もない。小林賢太郎が断罪されていると同時に、ラーメンズを取り巻いていた世間が断罪されているのだ。

世間として断罪される側に立って、今までずっと自分で自分を断罪していたのだなと気づく。


人間の特徴を面白おかしく誇張すると、面白さが生まれるけれども、その特徴を持った人を差別することになってしまう。独身女性の発言を勘違いとして揶揄するコント、新しいルールをよくわかってない中年を揶揄するコントなんて世の中に山ほどある。ゲイを揶揄するコメディアンもいた。こういったコントをしていたコメディアンが、清廉潔白が求められるイベントに関わるのならば、「当時の私は間違っていました」と、どこかで謝らなければならないのだろうか。

オリンピックが「清廉潔白が求められる場」なのかどうかはわからない。商業的な面に注目していたけれど、オリンピックを招致するということは、こういった粛清を招致するということなのだなと実感している。

コメンテイターのふりをしているコメディアンは、首が寒くなっていることに、きっと気づいているだろう。今回の騒動のように一晩の速さで、過去の言動を取り返しのつかないレベルにまで広げられ、仕事が止まってしまうのは、きっと恐怖に違いない。


どんなコメディが披露されてもいいと思う。しかしながら、披露したコメディの内容に表現者として責任を取らなければならない時代になったのだろう。有名になったからどんな場でどんな表現をしても許されるという世の中ではなく、その表現にあった場でのみ評価がされる世の中になったのだ。

ただ売れたい若手の頃の軽はずみな表現一つがあったことで、弁解の余地なく二十年後に解任されてしまうというのは、厳しい。個人的には、十分に売れてからも発表されている「日本語学校」が問題視されたというロジックの方が納得できる。

なぜ誰も表立って庇わないのか。過去に間違いがあったとして、その過去の存在で一発アウトになってしまう世の中はひどく不安定だと思う。しかし仲間や関係者であっても庇うことを許さず、むしろなぜ今まで間違いが指摘できなかったのか? と合わせて批判される風潮があるのは確かで、関係者が庇う意見を出すリスクが高くなっている。

下手な擁護はより炎上の範囲を広げてしまう。謝罪の表明以外に何も口を開かないのが、現在の世の中の最適解なのだ。ロジック以外で物事が判断されているから、周囲もそういった判断になる。言葉が通じる相手ではない。

これがオリンピックなのだ。ゆっくりと諦めの境地で、私はこの騒動を眺めている。


表現者の多くはきっと清廉潔白を求められる場に立てなくなる。世の中は清廉潔白を求める方向にどんどん進んでいる。

そしてこの清廉潔白の基準だって人によって異なる。何かを批判することが清廉潔白に反すると考える人だっている。このように表現者を責め立てることが、ある種の娯楽のように日常的に行われる世の中になっていくのだろう。

準備が足りない開会式がどんなものになるか見て笑ってやろう、と馬鹿にする目的で開会式を見る人間の性根の方が、余程腐っているとは思う。ディスプレイの向こうを燃やして楽しむ世の中のどこが清廉潔白なのかは、いささか疑問だ。