消える愛おしさの魔法

コーネリアスのインタビュー記事の存在は知っていた。そして、その上で長い間コーネリアスを聴き続けていた。


私がファンになったのは、コーネリアスとしての活動が始まり、ファーストアルバムがリリースされた頃だった。 Trattoria Records 界隈やフリッパーズ・ギターに興味を持ち、CDショップや音楽雑誌から情報を漁る中で、コーネリアスロッキング・オン・ジャパンのインタビュー記事を、確か古本屋で立ち読みしたのだと思う。

例のいじめのエピソードを読んだ最初の印象は、さすがに嘘を書いているのだろうな、だった。雑誌であの記事を読んで事実だと真に受けられる純真さは、当時の私にはなかった。事実だったらさすがに記事にならないでしょう? 当時のロッキング・オンには、アーティストとのインタビューや作品の印象を、語り手が料理して記事にする、専門雑誌っぽいノリが強くあったと思う。

コーネリアスの最初のシングルである「太陽は僕の敵」の歌詞のように、意味のない(少なくとも事実ではない)表現をするのがコーネリアスなのだと私は理解していた。今になって思い返すと、意味のない表現であったとしても、あのインタビューの内容は「ない」と思うけれど、当時はコーネリアスなりの悪趣味な表現の一つだと思っていたし、その性格の悪さがミステリアスな魅力の一つであるとすら感じていた。

孤立しがちだった陰気な学生時代の私にとっては、アーティストを恐れ崇めるきっかけにすらなったのかもしれない。当時は音楽雑誌でアーティストのやんちゃなインタビューを多く読んでいたこともあって、倫理的な感覚が麻痺していたというのもあっただろうか。

もちろんこれは全て、私にとっての話だ。


クイックジャパンの記事を目にしたのは、その後、インターネットに入り浸るようになってからだった。「POINT」がリリースされた頃、インターネットで情報を漁っているときに、どこかの掲示板(2ちゃんねるではない)で記事のスキャン画像を目にしたと記憶している。

記事の内容に目を通しながら最初は、読んだことがある例の記事だなと思った。しかし読み進めていくにつれ、どうも記憶にない内容が書かれているし、以前読んだ記事とはトーンが違うことに気づいた。どうやら違う雑誌の記事で、同じようにいじめについて取り上げている記事なのだと把握できたときには、大きなショックを受けた。コーネリアスは他の雑誌でも同じことを言っていたのだ。

当時のクイックジャパンに対しても、正確な事実が書かれているだなんて、私は思っていない。クイックジャパンの記事だけを読んだのなら、嘘だと受け流すこともできただろう。けれども同じトピックについて二つの雑誌で書かれているということは、その詳細には誇張があったとしても、そのトピックの根本である「いじめを行っていたこと」自体は事実なのだと思った。そして同じテーマを使い回していたということは、それを一つのアイデンティティとして強くアピールしていたということなのだ。もし無意味なキャラ作りとして語っていたのなら、他の雑誌では他のアイデンティティで応対しただろう。

これは、さすがにクソダサい。もちろん行為がクソダサいし、それを吹聴しているのもクソダサい。

クソダサいのだけれど、クソダサければクソダサいほど、当時聴いていたPOINTのイメージとはかけ離れてしまい、「過去のこと」であるという意識が強まってしまった。作品と記事に出会う順番が時系列通りだったなら、もしかするとコーネリアスのファンにはなっていなかったのかもしれない。

今思い返すと、この記事との出会いが私にとって眼差しを改める一番のチャンスだったのだなと思う。しかし私は「当時はどうであれ、今は素晴らしい音楽を作っているのだからいいじゃないか」と弁護する気持ちで、この記事を乗り越えてしまった。この気持ちの一番の問題は、いじめを受けて、記事でさらに侮辱された被害者が不在であるということだ。

もちろん、消化しきれない記事ではあった。ただ本人に過ちを犯していた意識は当然あるだろう。ならばそれ以降のインタビューで、当時のインタビューの内容に対して何らかの表明があるのではないか? 謝罪という形ではなくても、あれは嘘でした、悪い冗談でしたみたいなコメントがどこかにあってもいいのではないか? と思って、コーネリアスのインタビュー記事を探してみることは折に触れてやっていた。

けれども結局、そんな趣旨の記事や文章を見つけることはできなかった。もしそんな記事があるのなら今頃話題になっているはずなので、きっとどこにもそんな記事は存在しないのだろう。


コーネリアス小山田圭吾が何か話題になるたびに、インターネットの先にいる誰かがこの記事を再放流するので、何度となくこの記事には目を通すことがあった。「酷い記事だった記憶があるけれど、さすがに大げさに記憶してしまっているだけだろう」と思い読み返してみては、これはさすがに酷いな……と返り討ちにされることを、何度も何度も繰り返していた。

ただその記事は、何度インターネットに放流されても炎上することはなかったので、過去の与太記事だと世間からは判断されているのだろうと思っていた。オリンピック以外でも、グラミー賞にノミネートされたり、「デザインあ」での活動であったり、攻殻機動隊の音楽担当であったり、活動が大きく世間に露出したタイミングはこれまでに何度もあったのだ。記事の存在はさておき、これまでの実績からするとオリンピックの開会式の音楽担当は妥当だとは思う。ただオリンピックは引火性が高すぎたのだ。

この炎上は想像以上だったけれど、炎上するまで火種をずっと放置していたら、いつか炎上するときには大炎上になってしまう、ということなのだ。オリンピックに関わらなくても、遅かれ早かれこの炎上は発生していただろう。

しかし「炎上しそうだから謝罪する」「活動が大きくなったから謝罪する」というのは、そもそも違う。罪悪感を抱えていたのなら、どんな状況であっても、さっさと謝るべきだった。過去の過ちは、黙っていては無かったことにはできない。謝って許されるかどうかは相手次第だけれど、謝罪する意思の表明はするべきだった。ただ炎上したから謝る、炎上しそうだから謝る、というのは本質的な謝罪の姿勢ではないのだ。

作風が少しずつ変わり、実績が少しずつ積み重なっていったので意思表明するタイミングを逃したのだろう。評価されている音楽活動とあまりにもイメージが異なる記事だから、謝罪して記事の内容を明るみにすることができなかったのだろう。内面的な理由を慮ることはできるけれど、罪悪感に苛まれたのなら、できるだけ早く謝るべきだった。いじめがあった当時から数えると30年以上の年月は、風化する年月ではなくて、口をつぐんだ罪の年月だと、被害者は感じているだろう。


世間からは問題視されていないようなのだから問題ないのだろう、あとは自分のなかでどう記事の存在を消化するかだ、と考えてしまっていた私の気の持ちようも正しくなかったのだと反省する。被害者がある問題について、世間から問題視されているかどうかは関係ないのだ。当時の時代のムードがどうこうというのも関係ない。いじめを反省せず武勇伝的に語っていたのだから、それを過ちだったと感じたタイミングで被害者に謝るべきだった、ただ単にそれだけだ。

あの記事は当時の精神性であり、現在の小山田圭吾とは対極であるという思いは今も変わらずある。そうでなければリスナーではあり続けてはいない。ただ今の本人が反省していたとしても、過去の行為に対する禊が必要ない、ということにはならないのだ。黙っていては被害者には何も伝わらないし、成功した本人が否定しなければ、過去の行動まで成功するまでのプロセスとして正当化されてしまう。


好きな作品の作者が全肯定できるわけではない。ただ作品と作者が全く別のものであるとも思えない。作品は好きなのに、作者の行動には共感できないことについて葛藤することは、作品を愛する多くの人が感じることだ。今回の件についても、多くの関係者やファンが、大なり小なりの葛藤を抱え続けていたと思う。

葛藤を秘めながら、この騒動にどのような意見が交わされるのかを見守ってきた。「ネット上ではめちゃくちゃ有名な話なんですよ、メンバーを決めた人はナメていたんですよ」みたいなことを言う人は、全く好きになれないなと思った。この発言が正しい、間違っているではない。軽いのである。オリンピックより前から、関わってきた人は大勢いるのだ。これまでの関係者がどう葛藤していたかなんて、全く想像していないのだろう。

時事ネタにすぐ反応する知識人っぽい人は、広範な知識がある事情通のように見えて、別にそのトピックの界隈のことをどうでもいいと思っている人なのだな、と思うようになった。もちろんこれは反面教師になるので、私も気を付けなければならないと思う。


それにしても「ファースト・クエスチョン・アワード」の収録曲の歌詞は、世間から大バッシングされるこの状況を見越していたかのようだ。もしかすると当時のコーネリアスはずっとこの断罪される日を待っていたのかもしれない。不遜な発言を咎められ世間から突き放されてアルバムが完成する、まで見越していた可能性すらある。しかし27年で立場は大きく変わってしまった。こんな形で将来にツケが回ってくるとは当時は想像もしていなかっただろう。

コーネリアスとしての活動が止まるのは、謝罪のタイミングで避けられないことだったし、自業自得だと言える。これだけ大きな話題になったけれど、数年後に海外で活動再開するチャンスもあると思う。

しかしMETAFIVEにとっては本当につらい。今の六人だからこそのMETAFIVEなのだけれど、その六人のMETAFIVEには、そんなに時間がないのだ。騒動が大きくなって、取り返しのつかない状況になりつつある。行動一つで、この苦境は変えられたはずなのに。


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