7月の現状/オリンピックについて

metaparadox.hatenablog.com

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ブログに記事を二つ書いて、気持ちをリセットしようと試みたのだけれど、リセットされた気持ちは「無」から何も動かないので、どうやらこのリセットは上手くできていないようだ。

オリンピックを全く見る気が起きない。

街中のテレビでチラリと映像を見たり、SNSやニュースの見出しとして、オリンピックの状況はある程度伝わってくるけれど、さてテレビを付けて観戦しようか、という気持ちには全くならない。開会式も見ていないし、ネットに上がっている誰かの感想を聞いて、競技を見てみようとテレビのチャンネルボタンを押すこともない。

何らかの意思表明だとかで、気持ちを無理矢理抑え込んで見ないようにしているわけではない。単に見る気が起こらないから見ないのだ。もし会社に出勤していたら、盛り上がっている同僚の感想を聞いて興味を持ったかもしれないけれど、ずっと在宅勤務をしていると同僚と雑談する機会もないので、そういったきっかけも生まれない。

そもそも平日の日中に競技をされても、仕事中だから見られない。夜更かしや早起きして見るのが国際大会の醍醐味なのにな、と思う気持ちはうっすらとある。

興味がないと思うと、ふと「興めよ!」が頭の中に響いてしまってしょんぼりする……からかもしれないな。


政府のことを「国」と呼んでしまうのを止めたい。政府は政府だ。

この記事を書いている現在、東京都の一日の感染者数は三千人を超えた。この日々の感染者数の中でオリンピックを継続することについて、疑問視する声が上がっている。ただ東京都のコロナウイルスの感染者数が大きく増加し、過去にない数値に達してしまうことは、専門家のシミュレーションから予期できたことだ。つまりこの状況は、予期できたことがそのまま起こっているだけなので、今更中止はしないだろう。もちろん中止した方が賢明なのだけれど、今の政府に柔軟な判断は期待できない。

オリンピック開催への是非が、政治の保守とリベラルの対立と重ね合わされて、「オリンピック開催に賛成=保守層」「反対=リベラル層」みたいに言われがちだけれど、これにはとても違和感がある。今の与党の体制を盤石としたいのなら、むしろオリンピックは中止すべきだった。政府がオリンピックの中止を判断したとしても、政府と野党の判断が一致しただけなので、与党の支持には何の影響もなかったはずだ。

オリンピックは一過性のものだ。今瞬間的にオリンピックがポジティブに捉えられていて、コロナ禍の惨状を忘れる切っ掛けになったとしても、それは一時的なものでしかない。オリンピックの興奮はやがて冷めるけれど、コロナウイルスとの戦いは続く。そしてオリンピック期間中に大きく増えた感染者数のグラフを見て「オリンピックを開催していなかったら、こんなに状況は悪くならなかったのでは」と、どうしても考えてしまうだろう。なにせオリンピックが終わったら、大手メディアはオリンピックに義理立てする理由がなくなるのだ。

オリンピックの開催を強行してしまったおかげで、与党の強い支持率を背に盤石だった政権が揺らいでいる。オリンピックの開催は、与党のためにこそなっていない。権力を笠に着た老人が思い出作りをするために、与党への強固な支持を利用しているだけだ。

国民の健康を考えるなら、オリンピックではなくコロナウイルス対策にリソースを割くべきだったし、国民にへのワクチン接種が十分に進んでいない状態で、大きくリソースを奪う形式での開催はすべきでなかった。

国益が損なわれているこの開催を「与党の方針である」と主張されても、党の支持者はきっと戸惑ってしまうだろう。政権の運営能力が与党にしかないと考えて、消去法で与党を支持している人が、どんどん離反することになる。与党の支持者は、別に老人のファンクラブをやっているわけではないはずだ。


本当にアスリートのことを考えるのであれば、健康が保証できない状況下では開催すべきでなかったし、少なくともこれまでのオリンピックと同様の形式で開催すべきではなかった。多くの会場を無観客とする判断ができたのは評価できるけれど、もっと多くの選択肢が検討できたはずだ。

参加するアスリートの対人接触機会を減らすなら、種目別に場所や日程を分割してやるべきだったし、よりワクチン接種率が高い国で一部の種目を実施することだって考えられた。選手村に多くのアスリートを集めるのではなく、小規模に開催した方がコロナウイルスへの感染リスクは下げられるし、イベントとして小回りが利きやすくなる。小さく開催すれば、アスリートがより多くの関係者を呼べたかもしれない。ワクチン接種率が高まったころに開催すれば、有観客での実施も検討できただろう。

これまでと同様の形式にこだわったのは、ムードを作って耳目を集めたかった関係者の都合だ。一年間の猶予があったにも関わらず、柔軟な選択肢を準備し状況に応じた判断ができなかった責任者達に問題があったとも言える。

そもそも、聖火を持って日本中を巡ることや、開会式で出し物をすることは、コロナウイルスの渦中にオリンピックに参加するアスリートにとって何の意味があるのだろうか? 誰が満足するための儀式だったのだろう?


ムードを作って耳目を集めたかった関係者の都合、と心の底では考えているから、私はオリンピックを見る気が起きないのかもしれない。私はそもそも性根が天邪鬼なのだ。

この記事で気持ちがリセットされたらいいのだけれど。ただパラリンピックは面白そうだと思っている。

TEXT

解任は妥当だと思うけれど、という前置きを使いたくない。小山田圭吾の件も含めてそれは責任者が判断したらいい。


まずラーメンズのあのネタに、小林賢太郎ホロコーストへの賛意を示す意図がないのは明らかだろう。ただ頭の変な人のセリフだとしても、ホロコーストを持ち出して笑いを取ろうとしたのが問題視されているのだと思う。確かにこの2021年にこのネタをやって笑いが起きないだろうし、2021年だったら避けたワードではあるだろう。

しかしネタの映像でも笑いが起こっているように、あの表現で笑いが取れたのが当時だったのだ。それは当時の認識として、ホロコーストがデリケートな話題であるという認識がこの場にはなかったということだ。日本人が原爆の話題で全く笑えないように、ホロコーストはデリケートなワードだったのだ。のん気で鈍感な世の中だった。

それにしても22年前のワンフレーズだけを取り上げて、今もそういった鈍感な意識の人間であると本気で思っている人がどれだけいるのだろうか?

本気で思っていないとしても、過去のネタに対する禊が必要ということなのだろうか。過去のネタの中に今の社会通念に基づかない表現があった場合に、何らかの謝罪を行わなければ、活動がままならなくなるのだろうか? 古い小説であれば、差別的な表現に対してどのように表現を改めるか、改めないかが議論されたりするけれど、お笑いのネタはそういった当時の表現としての議論がされないのだろうか?


しかしながら、ラーメンズのネタには元々きわどい表現があったのは確かだとは思う。

ラーメンズの有名なネタに「日本語学校」がある。いろいろな国の日本語学校を舞台として、先生と生徒の変なやり取りを笑いにするコントだ。とても好評なネタで、アフリカ編、アメリカ編、といろいろなバリエーションが作られた。古くからインターネットに触れていた人は、Flash動画の音声として知っているかもしれない。

この日本語学校のネタは、外国人が話す日本語の可笑しさが一つの要素になっている。これは今の社会通念上、「正しくない」ネタだろう。

もし外国に「英語学校の日本編」とした日本の英語学校を舞台としたコントがあって、日本語なまりの英語で発音するコメディアンが「そんなこと言わねえよ、何勉強してんだよ」って表現で笑いを取っているネタが存在したら、日本人としていい気はしないだろう。笑われる側の当事者として気分がよくないということは、正しくないネタなのだと思う。

ただこのネタも、当時は大うけしたのだ。私もこのネタをとても気に入って、ラーメンズを追いかけるようになった。

「新日本語学校」のCDを買ったとき、いろいろな国の日本語をネタにして笑うことに少し違和感があったのを覚えている。しかしながら「深く考えずに面白がった方が面白い」という意識には勝てなかった。

お笑いのネタを見るときに、そういった葛藤が生まれることは珍しくない。でも受け入れた方が面白いから、受け入れてしまい、次第にその感覚も麻痺してしまう。これはコメディの怖さだろう。

そういったネタを披露したのは浅はかではあるのだけれど、それはラーメンズだけの話ではない。それを受け入れて笑っていた人たちも浅はかなのだ。同じ価値観を持って笑っていた両者に、何の差もない。小林賢太郎が断罪されていると同時に、ラーメンズを取り巻いていた世間が断罪されているのだ。

世間として断罪される側に立って、今までずっと自分で自分を断罪していたのだなと気づく。


人間の特徴を面白おかしく誇張すると、面白さが生まれるけれども、その特徴を持った人を差別することになってしまう。独身女性の発言を勘違いとして揶揄するコント、新しいルールをよくわかってない中年を揶揄するコントなんて世の中に山ほどある。ゲイを揶揄するコメディアンもいた。こういったコントをしていたコメディアンが、清廉潔白が求められるイベントに関わるのならば、「当時の私は間違っていました」と、どこかで謝らなければならないのだろうか。

オリンピックが「清廉潔白が求められる場」なのかどうかはわからない。商業的な面に注目していたけれど、オリンピックを招致するということは、こういった粛清を招致するということなのだなと実感している。

コメンテイターのふりをしているコメディアンは、首が寒くなっていることに、きっと気づいているだろう。今回の騒動のように一晩の速さで、過去の言動を取り返しのつかないレベルにまで広げられ、仕事が止まってしまうのは、きっと恐怖に違いない。


どんなコメディが披露されてもいいと思う。しかしながら、披露したコメディの内容に表現者として責任を取らなければならない時代になったのだろう。有名になったからどんな場でどんな表現をしても許されるという世の中ではなく、その表現にあった場でのみ評価がされる世の中になったのだ。

ただ売れたい若手の頃の軽はずみな表現一つがあったことで、弁解の余地なく二十年後に解任されてしまうというのは、厳しい。個人的には、十分に売れてからも発表されている「日本語学校」が問題視されたというロジックの方が納得できる。

なぜ誰も表立って庇わないのか。過去に間違いがあったとして、その過去の存在で一発アウトになってしまう世の中はひどく不安定だと思う。しかし仲間や関係者であっても庇うことを許さず、むしろなぜ今まで間違いが指摘できなかったのか? と合わせて批判される風潮があるのは確かで、関係者が庇う意見を出すリスクが高くなっている。

下手な擁護はより炎上の範囲を広げてしまう。謝罪の表明以外に何も口を開かないのが、現在の世の中の最適解なのだ。ロジック以外で物事が判断されているから、周囲もそういった判断になる。言葉が通じる相手ではない。

これがオリンピックなのだ。ゆっくりと諦めの境地で、私はこの騒動を眺めている。


表現者の多くはきっと清廉潔白を求められる場に立てなくなる。世の中は清廉潔白を求める方向にどんどん進んでいる。

そしてこの清廉潔白の基準だって人によって異なる。何かを批判することが清廉潔白に反すると考える人だっている。このように表現者を責め立てることが、ある種の娯楽のように日常的に行われる世の中になっていくのだろう。

準備が足りない開会式がどんなものになるか見て笑ってやろう、と馬鹿にする目的で開会式を見る人間の性根の方が、余程腐っているとは思う。ディスプレイの向こうを燃やして楽しむ世の中のどこが清廉潔白なのかは、いささか疑問だ。

消える愛おしさの魔法

コーネリアスのインタビュー記事の存在は知っていた。そして、その上で長い間コーネリアスを聴き続けていた。


私がファンになったのは、コーネリアスとしての活動が始まり、ファーストアルバムがリリースされた頃だった。 Trattoria Records 界隈やフリッパーズ・ギターに興味を持ち、CDショップや音楽雑誌から情報を漁る中で、コーネリアスロッキング・オン・ジャパンのインタビュー記事を、確か古本屋で立ち読みしたのだと思う。

例のいじめのエピソードを読んだ最初の印象は、さすがに嘘を書いているのだろうな、だった。雑誌であの記事を読んで事実だと真に受けられる純真さは、当時の私にはなかった。事実だったらさすがに記事にならないでしょう? 当時のロッキング・オンには、アーティストとのインタビューや作品の印象を、語り手が料理して記事にする、専門雑誌っぽいノリが強くあったと思う。

コーネリアスの最初のシングルである「太陽は僕の敵」の歌詞のように、意味のない(少なくとも事実ではない)表現をするのがコーネリアスなのだと私は理解していた。今になって思い返すと、意味のない表現であったとしても、あのインタビューの内容は「ない」と思うけれど、当時はコーネリアスなりの悪趣味な表現の一つだと思っていたし、その性格の悪さがミステリアスな魅力の一つであるとすら感じていた。

孤立しがちだった陰気な学生時代の私にとっては、アーティストを恐れ崇めるきっかけにすらなったのかもしれない。当時は音楽雑誌でアーティストのやんちゃなインタビューを多く読んでいたこともあって、倫理的な感覚が麻痺していたというのもあっただろうか。

もちろんこれは全て、私にとっての話だ。


クイックジャパンの記事を目にしたのは、その後、インターネットに入り浸るようになってからだった。「POINT」がリリースされた頃、インターネットで情報を漁っているときに、どこかの掲示板(2ちゃんねるではない)で記事のスキャン画像を目にしたと記憶している。

記事の内容に目を通しながら最初は、読んだことがある例の記事だなと思った。しかし読み進めていくにつれ、どうも記憶にない内容が書かれているし、以前読んだ記事とはトーンが違うことに気づいた。どうやら違う雑誌の記事で、同じようにいじめについて取り上げている記事なのだと把握できたときには、大きなショックを受けた。コーネリアスは他の雑誌でも同じことを言っていたのだ。

当時のクイックジャパンに対しても、正確な事実が書かれているだなんて、私は思っていない。クイックジャパンの記事だけを読んだのなら、嘘だと受け流すこともできただろう。けれども同じトピックについて二つの雑誌で書かれているということは、その詳細には誇張があったとしても、そのトピックの根本である「いじめを行っていたこと」自体は事実なのだと思った。そして同じテーマを使い回していたということは、それを一つのアイデンティティとして強くアピールしていたということなのだ。もし無意味なキャラ作りとして語っていたのなら、他の雑誌では他のアイデンティティで応対しただろう。

これは、さすがにクソダサい。もちろん行為がクソダサいし、それを吹聴しているのもクソダサい。

クソダサいのだけれど、クソダサければクソダサいほど、当時聴いていたPOINTのイメージとはかけ離れてしまい、「過去のこと」であるという意識が強まってしまった。作品と記事に出会う順番が時系列通りだったなら、もしかするとコーネリアスのファンにはなっていなかったのかもしれない。

今思い返すと、この記事との出会いが私にとって眼差しを改める一番のチャンスだったのだなと思う。しかし私は「当時はどうであれ、今は素晴らしい音楽を作っているのだからいいじゃないか」と弁護する気持ちで、この記事を乗り越えてしまった。この気持ちの一番の問題は、いじめを受けて、記事でさらに侮辱された被害者が不在であるということだ。

もちろん、消化しきれない記事ではあった。ただ本人に過ちを犯していた意識は当然あるだろう。ならばそれ以降のインタビューで、当時のインタビューの内容に対して何らかの表明があるのではないか? 謝罪という形ではなくても、あれは嘘でした、悪い冗談でしたみたいなコメントがどこかにあってもいいのではないか? と思って、コーネリアスのインタビュー記事を探してみることは折に触れてやっていた。

けれども結局、そんな趣旨の記事や文章を見つけることはできなかった。もしそんな記事があるのなら今頃話題になっているはずなので、きっとどこにもそんな記事は存在しないのだろう。


コーネリアス小山田圭吾が何か話題になるたびに、インターネットの先にいる誰かがこの記事を再放流するので、何度となくこの記事には目を通すことがあった。「酷い記事だった記憶があるけれど、さすがに大げさに記憶してしまっているだけだろう」と思い読み返してみては、これはさすがに酷いな……と返り討ちにされることを、何度も何度も繰り返していた。

ただその記事は、何度インターネットに放流されても炎上することはなかったので、過去の与太記事だと世間からは判断されているのだろうと思っていた。オリンピック以外でも、グラミー賞にノミネートされたり、「デザインあ」での活動であったり、攻殻機動隊の音楽担当であったり、活動が大きく世間に露出したタイミングはこれまでに何度もあったのだ。記事の存在はさておき、これまでの実績からするとオリンピックの開会式の音楽担当は妥当だとは思う。ただオリンピックは引火性が高すぎたのだ。

この炎上は想像以上だったけれど、炎上するまで火種をずっと放置していたら、いつか炎上するときには大炎上になってしまう、ということなのだ。オリンピックに関わらなくても、遅かれ早かれこの炎上は発生していただろう。

しかし「炎上しそうだから謝罪する」「活動が大きくなったから謝罪する」というのは、そもそも違う。罪悪感を抱えていたのなら、どんな状況であっても、さっさと謝るべきだった。過去の過ちは、黙っていては無かったことにはできない。謝って許されるかどうかは相手次第だけれど、謝罪する意思の表明はするべきだった。ただ炎上したから謝る、炎上しそうだから謝る、というのは本質的な謝罪の姿勢ではないのだ。

作風が少しずつ変わり、実績が少しずつ積み重なっていったので意思表明するタイミングを逃したのだろう。評価されている音楽活動とあまりにもイメージが異なる記事だから、謝罪して記事の内容を明るみにすることができなかったのだろう。内面的な理由を慮ることはできるけれど、罪悪感に苛まれたのなら、できるだけ早く謝るべきだった。いじめがあった当時から数えると30年以上の年月は、風化する年月ではなくて、口をつぐんだ罪の年月だと、被害者は感じているだろう。


世間からは問題視されていないようなのだから問題ないのだろう、あとは自分のなかでどう記事の存在を消化するかだ、と考えてしまっていた私の気の持ちようも正しくなかったのだと反省する。被害者がある問題について、世間から問題視されているかどうかは関係ないのだ。当時の時代のムードがどうこうというのも関係ない。いじめを反省せず武勇伝的に語っていたのだから、それを過ちだったと感じたタイミングで被害者に謝るべきだった、ただ単にそれだけだ。

あの記事は当時の精神性であり、現在の小山田圭吾とは対極であるという思いは今も変わらずある。そうでなければリスナーではあり続けてはいない。ただ今の本人が反省していたとしても、過去の行為に対する禊が必要ない、ということにはならないのだ。黙っていては被害者には何も伝わらないし、成功した本人が否定しなければ、過去の行動まで成功するまでのプロセスとして正当化されてしまう。


好きな作品の作者が全肯定できるわけではない。ただ作品と作者が全く別のものであるとも思えない。作品は好きなのに、作者の行動には共感できないことについて葛藤することは、作品を愛する多くの人が感じることだ。今回の件についても、多くの関係者やファンが、大なり小なりの葛藤を抱え続けていたと思う。

葛藤を秘めながら、この騒動にどのような意見が交わされるのかを見守ってきた。「ネット上ではめちゃくちゃ有名な話なんですよ、メンバーを決めた人はナメていたんですよ」みたいなことを言う人は、全く好きになれないなと思った。この発言が正しい、間違っているではない。軽いのである。オリンピックより前から、関わってきた人は大勢いるのだ。これまでの関係者がどう葛藤していたかなんて、全く想像していないのだろう。

時事ネタにすぐ反応する知識人っぽい人は、広範な知識がある事情通のように見えて、別にそのトピックの界隈のことをどうでもいいと思っている人なのだな、と思うようになった。もちろんこれは反面教師になるので、私も気を付けなければならないと思う。


それにしても「ファースト・クエスチョン・アワード」の収録曲の歌詞は、世間から大バッシングされるこの状況を見越していたかのようだ。もしかすると当時のコーネリアスはずっとこの断罪される日を待っていたのかもしれない。不遜な発言を咎められ世間から突き放されてアルバムが完成する、まで見越していた可能性すらある。しかし27年で立場は大きく変わってしまった。こんな形で将来にツケが回ってくるとは当時は想像もしていなかっただろう。

コーネリアスとしての活動が止まるのは、謝罪のタイミングで避けられないことだったし、自業自得だと言える。これだけ大きな話題になったけれど、数年後に海外で活動再開するチャンスもあると思う。

しかしMETAFIVEにとっては本当につらい。今の六人だからこそのMETAFIVEなのだけれど、その六人のMETAFIVEには、そんなに時間がないのだ。騒動が大きくなって、取り返しのつかない状況になりつつある。行動一つで、この苦境は変えられたはずなのに。


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