渋谷慶一郎+岡田利規 新作オペラ公演「THE END」@山口情報芸術センター(YCAM)(2012.12.02)
「初音ミクによるオペラ」を観に、山口情報芸術センターへ行ってきた。
山口駅の近く、県庁所在地ではあるものの都会と比べると古さが否めない街並みの中に、突然現れる広大なスペース。その奥に見える波打った屋根の建物。それが山口情報芸術センターだった。こんなスペースを贅沢に使った施設が日本に存在したなんて。日本は広い。
折角の施設なので交通の便がもっと良ければいいのに、と思う反面、交通の便があまり良くない場所だからこんな贅沢なスペースの使い方が存在できるのだろうなあとも思うので、なかなか難しい。
ただ、新幹線を使う場合、のぞみが停まる新山口駅→JRで20分揺られて山口か湯田温泉→徒歩20分弱でYCAMなので、実際そんなに面倒な乗継はない。一度行って道を覚えれば、二度三度は苦にならなくなるタイプの場所だとは思う。
新作オペラ公演「THE END」
渋谷慶一郎+岡田利規 新作オペラ公演「THE END」
http://www.ycam.jp/performingarts/2012/12/the-end.html
この公演、初音ミクや参加者個人に強い興味があったわけではなかったのだけれど、渋谷慶一郎さんが初音ミクをどのように扱うのか、という化学反応に興味を持ってついチケットを買ってしまった。いや、「チケット完売間近」との情報に背中を押されてついチケットを買ってしまった……という衝動買いエピソードの方が正しいか。
なので、目当ては音楽的な部分だったのだけれど、蓋を開けてみるとそんな無防備な興味本位感覚を打ちのめすようなメッセージ性を持ったオペラが飛び出してきて、クリーンにノックアウトされた。一時間と少し、ひたすら全身の感覚を刺激される興味深い体験。これが三千円は安い。
情報量が多過ぎて、一回観ただけでは処理できない部分が多々あったのだけれど、折角なので考えた内容について記述しておく。
比較される初音ミク
人間性を求められる/非人間性を求められる初音ミク
ボーカルシンセサイザー「VOCALOID」の「キャラクター・ボーカル・シリーズ」の一つである初音ミクへは、より人間らしく振る舞えるよう、あらゆる創作者達の努力が積み重ねられてきた。より人間らしく歌えるように、歌いながらダンスができるように、あらゆるツールが開発され、あらゆるノウハウが積み重ねられてきた。初音ミクのライブでは、あたかも等身大の人間がステージにいるかのような、より人間らしい振る舞いをする演出が追求されていた。
初音ミクが人間に近付くにつれ、「人間でもできることを初音ミクにさせる必要はないのではないか?」との疑問が浮かぶ。しかし、もし人間が初音ミクと同じ事をしても、初音ミクのファンにとっては全く意味が無いのが事実だ。
そもそも、ファンは初音ミクを人間の下位互換とは考えていない。人間が歌ってみたり踊ってみたりするように、初音ミクも歌ってみたり踊ってみたりする。その関係は対等だ。つまり、ファンは初音ミクの「人格」を認めているのである。
その一方で、人間にできないことを初音ミクにさせる試みも存在する。人間では不可能な早口で歌わせたり、人間には取り辛い音程の上下で歌わせたり、人間には不可能な軽業で踊らせたり、早着替えさせたり、ちょっと人間には要求し辛いことだってさせることができる。
初音ミクなら、人間では不可能だった表現も可能になる。初音ミクなら創造した通りに完璧な表現を行うことが可能である。
人間性を求められる初音ミク。非人間性を求められる初音ミク。初音ミクに求められる要素は多様で複雑だ。しかし、創作者が欲求の根底は一つ「既存の人間の枠を超えた、理想の『初音ミク』を生み出したい」という点だ。
その結果、創作者は皆それぞれ別の超人格を持った初音ミクを作り出すこととなった。初音ミクは、ミクを用いた創作の幅を狭めないよう公式設定は極力絞られている。こういった「別の初音ミク」を許容できる懐の深さは、初音ミクというコンテンツの大きな特徴の一つだ。
比較される初音ミク
しかし、あらゆる人格を持った初音ミクに対して、初音ミクを用いた大量のコンテンツを消費した視聴者は「理想の初音ミク」との比較をするようになってしまった。視聴者は、様々な創作者が生み出した初音ミクの積み重ねから生まれた「理想とする初音ミク」を愛し、その理想を外れるものに対しては批判的な態度で臨むようになった。
初音ミクのコミュニティが創作物の発表の場で形成されたこと、そして創作者と視聴者の境界が曖昧なことも、この初音ミクの理想化と対立に拍車をかけた。初音ミクから生まれた創作物に対する批判には主観的なものが多く、かつその批判内容はパクリ指摘など、他の創作物と比較してのものが多い。
新しく生み出された初音ミクは、まず別の自分と比較されてしまう。表現者としての初音ミクに人格があったなら、「私に似た私」と比較され、それを元に批判されることにきっと強いプレッシャーを感じるだろう。
THE ENDのヒロインである初音ミクは主体的な存在として描かれるが、こういった「私に似た私」との距離感や意思疎通の難しさに葛藤することとなる。
初音ミクの「THE END」
さて、題名となっている「THE END」、つまり、初音ミクの終わりとは何か。
コンテンツとしての終わり
誰も初音ミクを使った創作物を生み出さなくなったなら、初音ミクは存在しなくなったも同然だ。初音ミクは創作者無しでは歌えない。彼女が創作者を失ってしまうことを「初音ミクの死」と表現することはできるだろう。
逆に言えば、誰かが初音ミクを使った創作物を生み出し続ける限り、永遠に初音ミクは生き続けるとも言える。そして「流行」という段階を越え、表現手法の一つとして確立されたボーカロイドの代表作「初音ミク」が、突然創作者を全て失ってしまうことは考えにくい。初音ミクは死なない。
個別人格・表現者としての終わり
しかし、初音ミクの人格が創作者それぞれによって生み出されているとするならば、その創作者が初音ミクで創作物を生み出さなくなった時に、「その初音ミク」に限っては死ぬことになる、とも考えられる。初音ミクが総体として生き続けても、初音ミクが個別で死ぬ事はあり得るのだ。
初音ミクを個別人格として捉える場合、その生存を最も脅かすのは、彼女に最も近い存在である初音ミクである。初音ミク達はそれぞれ生存競争を戦うライバルであり、自らが生存し続けるために差別化若しくは模倣化を図らなければならない相手となる。
また、初音ミクは表現者だ。初音ミクが表現を生み出しても、それを誰も受け取らなくなった時、その初音ミクは生きていると言えるだろうか?誰にも受け入れられない初音ミクは死んだも同然と言えるだろう。つまりファンが、視聴者が初音ミクを殺す、とも言える。
このような死へのアプローチは「初音ミクの消失」でも描かれているが、THE ENDでは、視点が初音ミクに対してより主観的なものとなっており、かつ自らの存在証明を求める対話を繰り返すことにより、問題提起の色が強いものとなっている。
曖昧な境界
広がる活躍の場
さて、初音ミクが活躍する場は大きく広がり、従来のコミュニティの境界を次々と越え、テレビで紹介されたり、生活の場で目にするケースも増えてきた。昨今のその新しい場では、単純に「ボーカルシンセサイザー」としての初音ミクだけが評価されているのではなく「キャラクター」としての初音ミクが評価されるケースも多々存在している。
そういったシーンが広がる毎に、これまで初音ミクを「育てた」インターネット上のコミュニティ外の権威からのキャラクターへのアプローチも行われるようになるだろう。そして、求められるシーンに合わせて、初音ミクは「変わる」ことができる。
しかし、「理想の初音ミク」が心に棲んでいるファンは、その変わった、外部コミュニティで生み出された初音ミクを受け入れられるだろうか。歌に関しての創作は受け入れられても、キャラクターに関しての創作まで受け入れることは可能だろうか。新しく生まれた初音ミクの中には、それを心情的に初音ミクとは認めたくないキャラクターもいるだろう。多様化は保守派からの反発を生むものだ。
コミュニティ間の境界が曖昧になった世界で、初音ミクが初音ミクを否定する未来、それは初音ミク全体にとっての悲劇であり、終わりの始まりだ。その流れに従うならば、初音ミクは少しずつ個別に緩やかに死んでいくことになるだろう。
しかし、初音ミクは創作物だ。他の初音ミクに影響を受けて変化する初音ミクもいれば、他とマッシュアップされてキメラとなった初音ミクだって存在する。人間にとっての生と死よりも、初音ミクの生と死は個別レベルでも柔軟で曖昧であり、例え「初音ミク」が絶えてしまった後でも、その彼女の部分部分には他のコンテンツとして生き続けるものもあるだろう。
ストーリーの解釈(※勿論、作品の真意を保証するものではない)
THE ENDで表現されていた「私に似た私」の正体は「従来のコミュニティに存在する、視聴者が理想とする初音ミク」ではないだろうか。「従来の初音ミク」は、その所属するコミュニティ内の生存競争を生き抜いてきた。そして、新たに生まれた「THE ENDの初音ミク」に対しても、「死」の概念を伝えることで生存戦争を仕掛ける。
しかし、THE ENDの初音ミクは、従来の初音ミクとは存在意義が違う。オペラという別のジャンルに進出するために変身した初音ミクは、従来の初音ミクとはそもそも目的が異なるものだ。
例として、THE ENDの初音ミクは「美人」に造形されており、かわいく一般に好まれ易い従来の初音ミクとは異なったが、その佇まいは舞台向きであり、ルイヴィトンがデザインした衣装はビューティーな彼女にとてもよく似合った。
しかし、視聴者のすべてがそのように解釈し受け入れてくれるわけではないだろう。THE ENDの初音ミクに対して「これは従来の初音ミクとは異なる」と攻撃を仕掛ける視聴者も、きっと多くいる。THE ENDの初音ミクがフォークで攻撃を仕掛けられているシーンはそのような状況を示唆していると考えられないだろうか。
しかし現在、初音ミクはターニングポイントを迎えている。新しい初音ミクを受け入れることができなければ、新しい世界、少なくともこのオペラの世界の先を覗くことはできない。そう、この舞台が「イニシエーション」なのだ。ここから初音ミクは新たなるシーンへと生きて羽ばたいていく。
さて、君はどうする?この新しい初音ミクを生かすも殺すも君次第だ。
舞台の仕掛け
前方に半透明スクリーン、後方にスクリーン、そしてその二枚のスクリーンの間に渋谷さんの演奏用のスペースが「消失点」をモチーフとしたスクリーンデザインに囲まれて存在していた。さらに、三面鏡の様に角度を付けて左右にスクリーンを配置、あと字幕用のスクリーンスペースが舞台下に設けられ、とにかくスクリーンだらけの舞台。
そしてそのスクリーンそれぞれに映像が投射される。よって映像の情報量が凄まじい。目が追いつかない。
それに加えて、音の情報量も圧倒的だった。観客としてじっと椅子に座って聴いているのが勿体ない位の音の奔流を浴びせられる。渋谷さんのパフォーマンスは初めて拝見したけれども、これは、ただ、とても、面白い。
身動きできない程の光と音の情報量にフリーズさせられる。その一瞬を逃すまいと集中を強いられる。唾がうるさい。おお。人生で一番「固唾を呑んでいる」瞬間だ今……それがとても心地良い体験だった。
面白かった
……などと書きながら、中学生位の子供が「ミクかっこよかったです!」とシンプルに感想を書いているのにも微笑んだりで、人それぞれの受け取り方があるパフォーマンスだと思った。色々な文脈が混ざり合っているため、その受け手の引き出しに呼応して様々な表情を見せる懐の深い舞台だった。勿論、それに向き合う気持ちさえあればの話で。
とにかく、半端ではない労力が注ぎ込まれており、その成果がこの土日の二日・三回で終わってしまうのは非常に勿体ない。渋谷さんも、また別のところで演るでしょうねえ、とのお話をされていたので、また観る機会があることを期待したい。たった一度じゃとてもじゃないけれど受け止め切れん。
そういや、初音ミクの隣にいたキャラクターについての解釈も上手くできていないし。あれは「従来の初音ミクが備えていたが、THE ENDの初音ミクが切り捨ててしまった部分」か「初音ミクの人型であり続けるために切り捨てた、飛翔したい希望」か。または他の何かかもしれない。臭いについての解釈も色々考えられるよなあ……こうして色々考えを刺激してくれるコンテンツは良いね。